★ Taake's profile ★

ワタクシ、た〜けと申します。プロフィールです。



1957年   三重県中部のとある過疎の村 (人口約6000人) に生まれ、野山で遊びながら育つ。
      小学校入学前の1年間、片道2kmをてくてく歩いて保育所に通う。途中道草を
      するのが日課で、帰りは3時間かかることもあった。茶の木の下のトンネルを
      くぐり、柿の木に登り、笹の林に分け入り、しずみ橋 (台風の大雨のときは冠水
      するようになっている欄干もない橋) から河原におりて石投げをする。

小 1 のとき 顕微鏡と地球儀に興味を持つ。顕微鏡でハエの足を観察したあとは、地球に
      思いを馳せる。♪小さなものから大きなものまで・・・

小 2 のとき 南アメリカの地図を描くことに熱中する。そらで、曲がりくねったアマゾン川が
      描けるまでになる。しかしチリの複雑な海岸線には手こずる。その後、
      オリジナルの地図を創作する遊びに没頭。

小 3 のとき ニイニイゼミの手づかみから始めて、アブラゼミとクマゼミの採集に熱中。
      ヒグラシとツクツクボウシもとれたが、どうしてもミンミンゼミはとれなかった。

小 4 のとき クワガタムシ採集に熱中。お菓子の缶いっぱいに捕ってきて悦に入っていたら
      翌朝、クワガタさんたちは自力で脱出。部屋中に散開。冬は凧上げに執念を
      燃やす。尾の材質と長さが凧の安定性にどのように関係するか研究する。
      「子供の科学」という雑誌で科学に目覚める。

小 5 のとき 星座に興味を持ち、ギリシャ神話を読む。しかし良い子だったので夜は9時には
      布団に入っていたし、こわがりだったために、夜空を見上げることはなかった。

小 6 のとき フナ、ハヨ、ウグイの釣りに熱中。
      将来は建築技師になることを夢見て、自宅の10分の1模型をボール紙で作る。
      なぜか早稲田式速記に興味を持ち、通信教育を受けるが、
      文語調の助動詞まで進んだところで筆を折る。「せしむる」とか言われても、
      意味わかんな〜い状態。

      東京のおじさんから「星の王子さま」をもらう。
      このおじさんは残念ながら私とは血のつながりはないが、
      林大(はやしおおき)という人で、東大で金田一春彦氏と学友だったという国語学者。
      戦後の国語政策の中心的人物で、後に国立国語研究所所長となり、
      様々な国語辞典の編集にたずさわり、JIS漢字規格制定にも尽力した。
      またこのおじさんは、林古渓の息子でもある。
      林古渓という人は「浜辺の歌」の作詞者として有名。

      大阪万博の前にオリンパスの小さいカメラを買ってもらい、
      写真を撮りはじめる。35mmフィルム用のコンパクトカメラで、露出は自動。
      セレン式の測光だった。シャッターは結構重かった。

中 1 のとき ブラスバンドに入りトランペットを吹く。
      経緯台式6cm屈折望遠鏡を買ってもらい、月や惑星を観察する。
      この望遠鏡、6cmとは名ばかりで、分解してみると筒の途中にマスクが入っており、
      実質の口径は4cmほどだった。望遠鏡製作会社がレンズ性能が悪いのを隠していた。
      夏休みの自由研究では立体写真の原理を調べ、撮影した写真を並べて両眼平行視
      をマスターする。
      豊臣秀吉をはじめとする伝記物にはまり、図書館の本を読み漁る。

中 2 のとき 夏に火星大接近。夏休みの自由研究で火星の観察をし、火星全図を描く。
      セサミストリートがはじまり、分からないながらも毎週見る。
      クッキーモンスターとアーニーがお気に入り。

中 3 のとき 夏休みは毎日、ラジオの気象通報を聴きながら天気図を描く。
      一眼レフカメラを 買ってもらう。機種は当時最もポピュラーだった、
      アサヒペンタックスSP、スーパータクマーf1.8 55mm付き。
      琥珀色をしたレンズコーティングがカッコ良かった。カメラはTTL測光。
      使っていたフィルムはネオパンSSかSSS。
      現像は普通の写真の場合にはフジドール、天体写真の場合には増感しなければ
      ならないのでパンドール。どちらも原液現像。
      ベークライト製の現像タンクを使用していた。
      そして、大阪のおじさんからかなり使い込んだ引き伸ばし機をゆずってもらい、
      お座敷プリントを始める。この引き伸し機はHANZAだったろうか。
      パンタグラフ式の上下動をする35mm用。
      レンズは同時にもらったレオタックスについていたものを流用。
      レオタックスはシャッターが粘っていたが、何度かシャッターを
      切るうちに復活したので、何本かは撮影したがその後、箱の中で眠っている。
      天体写真では、ウサギ座の写真で天文ガイドに入選。
      高校に入ったら 免許を取るからと親を説得し、YAMAHAのHT90を買ってもらう。
      しかし、停学覚悟で免許を取りに行く勇気がない小心者のため、
      かわいそうなバイクは納屋でほこりをかぶったまま6年間放置される。

高 1 のとき おばあちゃんに、赤道儀つき10cm反射望遠鏡を買ってもらい、天体写真撮影に
      熱中。アインシュタインの特殊相対性理論に興味を持ち、ブルーバックスを
      読みはじめる。
      医者になろうと志すが、血を見るのが嫌いなのと、
      毎日病人とおつき合いするのが性にあっていないと見て方向転換。
      天文学者になろうと決意するが、天体物理学科のある大学が東大・京大・東北
      大・岡山大にしかないことに気付くとともに、夕方「オハヨ〜ゴザイマス」と
      言って出勤 してきて、朝「オヤスミ〜」と言って帰路につく生活はまっとうで
      ないと判断し、またもや断念。

高 2 のとき 原子核物理、素粒子物理に興味を持ち、将来は粒子加速器の研究者か核融合の
      研究者になりたいと考える。当時は21世紀初頭には核融合が実用化されると
      予測されていたが、未だに実用化のメドは立っていない。きっと無理だろう。

高 3 のとき 受験勉強と、深夜放送と、ブルーバックスと、SF小説の日々。

大 1 のとき 名古屋大学理学部入学。写真部に入部。このサークルにハマリ、以後4年間を
      無為に過ごす。典型的なモラトリアム人間で、ノンポリであった。
      春、ヤマハの3万円のフォークギターを買う。吉田拓郎の曲を弾きたかった。
      写真部には、ソフトボールに執念を燃やす先輩たちがいて、写真についても
      それぞれにこだわりを持っていた。
      部室にあったカメラ雑誌で、森山大道や中平卓馬らを知り、
      写真とは何か、ということについて深く考えはじめる。
      ペンタックスSPを持って名古屋の街を歩き、撮影する。
      先輩の影響を受け、標準レンズに飽き足らなくなり、広角レンズが欲しくなる。
      先輩たちの使っていたカメラは、キャノンFTB、オリンパスOM-1、
      ニコンF2フォトミック、ニコマートなどで、レンズは28mmや35mmが多かった。
      そこで夏休みにアルバイトをしてキヤノンF-1を買う。
      当時ボディーだけで10万円以上した。レンズはFD24mm f2.8で4万円ほどした。
      本当は21mmが欲しかったのだが、価格的に手が出なかった。
      しかしこの24mmレンズは使いやすかった。
      画角が肉眼で見た視野にかなり近く、風景写真にはうってつけだった。
      絞り開放ではソフトフォーカスになってしまうものの、
      2絞りぐらい絞り込めば鮮鋭度はかなり高い。
      このレンズに赤いR1フィルターを付けて、風景を撮りはじめる。
      3絞り分も暗くなる赤フィルターを通して見る風景は、モノトーンである。
      もやのかかったようなボヤけた日本の空も、このフィルターを通すと
      くっきりとしてくるのだった。
      フィルムはそれまで使っていたネオパンからコダックのプラスXに切り替え、
      100フィートロールを使う。ASA160で撮っていた。
      同時に現像液はマイクロドールXにし、1:3 25℃で希釈現像。
      秋から冬にかけて、スリットカメラを自作しようと考え、
      設計図を描き、ボール紙を何枚も重ねてボディを作る。
      スリットを滑らかに動かすことが難しく、ほとんど使い物にはならなかったが、
      名古屋・栄の中日ビルの前で撮った写真をキャノンのフォトコンテストに
      出してみたら佳作か何かに入選した。これが唯一のコンテスト応募である。       
      四畳半の下宿でマンガ少年のファンタジー・ゾーン
      (ますむらひろし氏の作品)に遭遇。目の細い「ヒデヨシ」という猫の虜になる。

大 2 のとき 夏休みに写真部の撮影旅行で佐渡島に行く。
      フェリーから初めてトビウオを見る。佐渡の鄙びた風景に惹かれる。
      自分の写真のテーマは「Earth Catalog」であるという認識を持つ。
      写真部の友人と2DKアパートを借り、タバコとマージャンの日々。
      暇にまかせてアパートの近辺を歩き回り、写真を撮る。
      2年間、自転車さえ欲しいと思わなかった。

大 3 のとき 何を間違ったか数学科に進学。あぁ、物理学科にしとくべきじゃった。
      写真部の部展に出品するため、田舎の風景をミニコピーで撮り、
      コレクトールで現像し、4倍全に引き伸し、調色用の薬品で青黒く染める。
      FD100mmレンズとSLIK MASTER三脚を購入。24mmに慣れた目には、100mmは超望遠である。
      常用フィルムをパナトミックXに変え、ASA64で使う。現像液はマイクロドールX。
      夏休み、長野県鬼無里村と白馬村へ写真部撮影旅行。
      広島生まれのコワモテの友人にそそのかされ、岡崎まで電車で行って
      中古の50ccバイク(YAMAHA RD50)を買って名古屋まで乗って帰る。
      行動範囲が飛躍的に広がる。90ccのバイクが実家に眠っていることを思い出し、
      それに乗るべく真冬の夜間コースで中型二輪の免許を取る。
      YAMAHA HT90は実に軽快に走り、コイツで三重県と奈良県の県境にある
      高見峠越えをする。ガードレールもないダート道と深い谷は正に秘境。

大 4 のとき HONDA XL250を買う。いろんなところを走るようになるが、走行距離に反比例して
      景色を見なくなる。秋、東京へ本田技研の入社試験を受けに行き、趣味や特技は
      何かという質問に答えるために、以前に1週間かけて模写した、ますむらひろし氏
      の「アップル・タウン」という作品の一コマを持っていく。
      面接官に見せたが、「ほー」とか言ったきり、絶句してしまう。
      機械工学の試験問題など全く分からなかったのになぜか内定をもらう。
      きっと数学科でメーカーを受けに来た変わり者だったからだろう。
      しかし、2週間悩んだ末、内定をことわる。
      当時、「いちばん好きなことは、仕事にしちゃぁいけない。」というポリシーを
      持っていた。趣味を仕事にしてはいけない、と。ちょっとバカだった。
      秋の部展のためにイルフォードのマット印画紙のロールを購入。
      幅1m、長さ9m。これを丸ごと使って、砂写真(フォトグラム)を作る。
      砂は琵琶湖西岸で採取。デザインを考えて、ボール紙でマスクを作り、
      9回に分けて、砂をまいては露光をくり返し、一晩かけて完成。
      成績劣等でかろうじて数学科を卒業し、現在勤務している学校に拾われる。

23歳のとき 数学の教師となるが、以後の仕事関係の話は割愛。
      YAMAHA RZ250とSUZUKI CERVO(四輪)を買い、片道35kmの道を通う。

24歳のとき 大阪心斎橋で大学の先輩2人と一緒に写真展を開催する。
      当時は写真家のアンセル・アダムスが好きであった。

25歳のとき 夏、名古屋で大学時代の友人たちと3人で「三元中継」と題した写真展を開催する。

26歳のとき 結婚。三重県津市に住む。新婚旅行はサイパン。カラーネガフィルムを使いはじめ、
      家族の写真を撮るばかりで白黒写真から遠ざかり、作品作りは休眠状態となる。

38歳のとき
 M出版社から「フラクタルの森で遊ぼう」という少しだけ数学的な本を出版する。
      何冊売れたか不明。

42歳のとき
 インターネットを始め、ますむら氏の本が予想以上にあることに驚き、
      書店&古本屋巡りを始める。
      今後の人生の目標として、すべてのますむら本を収集することを決意する。
      そ、そんな大袈裟な。
      3年間担任した学年が卒業するにあたって、
      自費で「39べりまっち」という学年通信を出版する。(限定250部)

43歳のとき アタゴオル同志であるパウパウさんと一緒にますむら氏の住む千葉県野田市漫遊。
      微熱中年、中年探偵団、収集地獄の亡者として暗躍。
      2000.8.19〜21 ますむらひろし原画展「ヨネザアド帰還」を見るため初めて米沢市に
      足を踏み入れる。斜平山へ帰る道に佇んでしばし感動。原画200点以上をなめるように
      眺めて、感激。ますむらさんの歌う姿にしみじみ。ファンの人たちとの交流にうきうき。
      「頭に矢キャップ」をかぶって意味無く目立ち、歩くおやじギャグと化した。

44歳のとき 春、スキャナ購入を機にWebページで大学時代に撮った写真を公開する。
      18年間の長い休眠から目覚め、新たに作品としての写真を撮りはじめる。
      秋、パリ・ベルギーへ研修旅行。記録係になり、サブカメラとしてキャノンEOS KISSを
      購入。35mm〜80mmと75mm〜300mmのズームレンズにおまけのカメラバッグとちゃちな三脚
      がついて4万円。キャノンF-1とEOSで30本以上のカラー写真を撮る。
      帰国直後にF-1の裏蓋を開ける機構が故障。一度もオーバーホールをしてこなかったF-1は
      裏蓋の不具合というささいなことのためにその役目を終える。
      裏蓋は修理に出せば直るだろうが、ミラーを受け止めるスポンジが劣化してネバネバに
      なり、一度落下させたのでX接点が使えなくなり、フィルムカウンターの窓のプラスチック
      が外れ、24mmレンズも落として後ろ玉に傷がついており、もうそろそろ引退だと
      考えていた。25年も使ってきた愛着のあるF-1は、シャッターの音や感触が絶妙である。

45歳のとき EOSのEFレンズの描写力は悪くないが、プラスチックレンズかと思うぐらい軽い。
      EOSをメインカメラとして使う気はないので、新しいカメラを買うことを決意する。
      時代はディジタルカメラへと動き始めている。
      数百万画素の一眼レフディジタルカメラがアマチュアにも手の届く価格になってきた。
      デジカメか銀塩か、いろいろ比較検討するうちに、銀塩フィルムの中大判カメラに
      興味を持つ。オランダのカメラメーカーであるカンボが、カンボワイドという
      4×5判のカメラを作っており、このカメラにはドイツのシュナイダー社の
      スーパーアンギュロン(アングロン?アンギロン?)XL 47mm f5.6がついている。
      デジカメが中判銀塩に勝つには4000万画素ぐらいになるまで待たないといけないとみて、
      このカンボワイドを購入することを決意する。
      京都のカメラ店で定価の半値ほどで新品を購入。
      4×5inchでも撮れるよう、フジのクイックロードフィルムホルダーも入手したが、
      ランニングコストがかかりすぎるので、基本的には6×9cm判でいくことにする。
      カルメットのロールフィルムホルダを購入。
      カラーリバーサルフィルムで撮りはじめる。

46歳のとき XL47mmは、35mm判カメラなら21mmレンズに相当する超広角レンズなので、
      ピントグラスで距離を合わせるような使い方はせず、目測で距離を合わせる。
      こういう使い方にはカルメットのフィルムホルダは大袈裟すぎる。
      もっとコンパクトで軽いものをと考えて、ホースマンのロールフィルムホルダを入手。
      ファインダは見え味にこだわって、デフォルトのどこのメーカーのものかわからない
      ものの代わりに、ライカの21mm用を入手したものの、これにも飽き足らず、
      コンタックスの21mm用を入手。だんだんよくなってきたが、まだ納得していない。
      
      中判の写真を撮りはじめて過去を振り返ると、
      35mm判カメラで撮った写真は全て習作にすぎなかったと思える。
      いかにレンズやフィルムが進歩したとはいえ、記録性という観点からは、
      35mm判は小さすぎる。
      ブローニーフィルムに慣れてしまった今となっては35mm判のフィルムは、
      まるで35mm判に慣れた人がハーフサイズのフィルムを見るような感覚である。

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